11月7日 もっとも大いなる愛へ

本当は今日から長野旅行の予定だったけれども体調があまりにすぐれないので断念し、家でだらだら過ごした。みかん6個食べた。ちょっとだけ散歩もした。早めにお風呂に入り、19時から月刊根本宗子第18号『もっとも大いなる愛へ』を観た。

第17号『今、出来る、精一杯。』も観ていたのでなんとなく根本宗子の舞台への印象はできていたものの、前情報は無観客公演で視聴方法は配信のみ、稽古は完全リモートで役者の顔合わせは前日夜、ぐらい。わたしが観た土曜日だけ大森靖子が生出演だった。うれしい。

 

演劇、とざっくり括っていいのかわからないけど、演劇はあらすじを説明するのがかなり難しい。というか、小説とか漫画とかに比べてあまり説明する気がない気がする。今回の舞台も「男女が飲食店で会話を試みる」と「だらしない姉とちゃんとした妹がホテルで会話を試みる」のふたつの物語が同時に進行していく話、というのがとても表面的なあらすじだけど、結論としては「そうではない」。けどこの「そうではない」は夢オチの物語に対して「この物語は夢オチです!」って言わないのと同じ程度の「そうではない」なんだけど……って書くべきではないのかもしれないけど……むずかしい……公式ページにあらすじ載ってないし……

わたしが考えたあらすじは「やさしくて正しい言葉をみつけることができれば、私が集中していれば私が間違えなければ、その言葉が届きさえすれば、私は必ずあなたを救うことができる、という妄想の話」というものだったけど、これはのちの自分のために考えたもので、未視聴のひとに「観たい」と思わせるものではない。演劇は、未視聴のひとに「観たい」と思わせるきっかけを物語の内容に置いてないんだと思う。物語が面白いかどうかじゃなくて、生身のにんげんによる「演じるという行為」を観せるみたいな……ライブと同じで「歌う・演奏するという行為」を目的に行くのであって曲目はなんでもいいみたいな……いやよくないけど……

 

それはともかく『もっとも大いなる愛へ』、とてもよかった。

伝えたいことをうまく伝えられないことへの不安や歯がゆさ、伝わらないことへの苛立ち、伝えたい言葉を吟味する過程とその失敗。全員が全員、演じているようにはとてもみえないぐらいの演技だった。当然演じているんだけど、演技だともわかるんだけど。でも観てるこっちも叫びだしたくなるようだった。伝わらなくて伝えられなくてこわいという、よくよく身に覚えがあるはずの気持ちを掘り起こして揺さぶって、伝えるという行為をおろそかにしていないか問い詰められるような感覚があった。気づいたら泣いてた。

あの演技は、役者さんたちの、何を伝えたいかを考える、伝えたいことを伝えたい形に整える、伝わったかを確かめる、というような「伝える」ために必要なもっともっと無数の手順を反復してきた成果なのだと思う。わたしは舞台をたくさん観るほうではないけど、万理華ちゃんのお芝居を観るたびに、その反復のことを考える。なにかのインタビューでも言っていたように万理華ちゃんにとってこの舞台は「他人事ではない」のだろうし、わたしにとっても他人事ではないし、誰にとってもそうだ。伝えられない・伝わらないかもしれない可能性に怯まずに、間違いをおそれずに、どれだけ正しくてやさしい愛の言葉を考えて考えて選び抜いていくか。なにも言葉が出てこないとき、それでも一歩踏み出さなきゃいけないときに、この作品にそばにいてほしい、と思った。

 

 

 

感想へただ、よくまとまらなかった。爆音で観ていたせいで頭がズキズキする。日記打ってるあいだにおさまった。よかった。寝る。